『Through the Fire』の歴史を語る上で避けて通れないのが、ヒップホップ界の巨人カニエ・ウェスト(Kanye West)による2003年の画期的なサンプリングです。
カニエは2002年、命を落としかける凄惨な自動車事故に遭い、顎の骨を3箇所骨折しました。顎を金属ワイヤーで固定され、満足に口も開かない極限状態の中で彼が制作したのが、デビューシングル『Through the Wire』でした。原曲の「Fire(炎)」を自らの骨折治療器具である「Wire(ワイヤー)」に掛け合わせ、ピッチを極端に上げた「早回し(チップマンク・ソウル)」の手法でチャカのボーカルをフックに用いたこのトラックは、ヒップホップの歴史を塗り替える大ヒットを記録しました。
しかし、このサンプリングを巡るチャカ・カーン本人の受け止め方は、極めて人間味に溢れたものでした。後年のテレビ番組『Watch What Happens Live』等のインタビューにおいて、チャカは当時の心境を率直に激白しています。
報道関係者や音楽誌が記録した本人の証言によると、チャカはカニエから直接連絡を受け、「事故から立ち直るための曲にどうしてもあなたの歌声が必要だ」と懇願された際、その熱意とエピソードに深く感動して使用を快諾しました。ところが、完成した楽曲を聴いた瞬間、自分の声がシマリスのようにピッチシフトされて甲高く加工されていたことに大きなショックを受け、当初は強い不快感を抱いたと打ち明けています。
それでも年月を経て、カニエの作品が若い世代に自身の原曲を知らしめる架け橋となった事実や、音楽史に残るクリエイティビティであったことを認め、現在では複雑な感情を交えつつも寛容に受け止める大御所ならではの器の大きさを見せています。