ヘリ基地反対協議会とは?辺野古移設の対立史と2026年現在の真相

ヘリ基地反対協議会とは?辺野古移設の対立史と2026年現在の真相

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ヘリ基地反対協議会が誕生した背景には、1996年4月に日米両政府が合意した普天間基地移設問題が存在します。市街地の中心に位置し「世界一危険」と称された普天間飛行場の全面返還条件として提示されたのが、沖縄県内への代替施設建設、すなわち名護市辺野古沖合へのヘリポート移設でした。

これに対し、地元・名護市の住民や平和運動団体は「危険な基地を別の沖縄の海に押し付けるだけだ」と強く反発しました。翌1997年12月21日に行われた名護市民投票では、投票率82.74%を記録する中、反対票が52.8%を占めて過半数に達します。この市民投票運動の中核を担った市民、労働組合、環境保護団体が結束し、恒常的な阻止組織として正式に立ち上げたのがヘリ基地反対協議会です。

組織の運営は、思想信条や政治的立場の差異を超えて連帯するため、特定の個人に権限を集中させないヘリ基地反対協議会共同代表制を採用してきました。長年先頭に立ってきた安次富浩氏や仲本興真氏をはじめ、かつて名護市長として新基地反対を貫いた稲嶺進氏など、地元の実力者が共同代表として名を連ねてきました。公の記者会見や現場の集会において、共同代表陣は「勝つ方法は諦めないこと」「私たちが海と陸で立ち塞がり続ける限り、基地は完成しない」と繰り返し語り、長期持久戦の思想的支柱を築いてきました。

2004年には、防衛施設局(現・防衛省防衛局)が着手したボーリング調査に対し、協議会はシーカヤックや漁船を繰り出して海上で激しく抗議(海上阻止行動)を展開しました。沖合に設置された調査用やぐらを約400日間にわたり占拠し、政府に当初の沖合案を断念させ、現行の沿岸部埋め立て案(V字滑走路案)へと変更させた実績は、日本の住民運動史において特筆すべき出来事として記録されています。

田中 結衣
著者

田中 結衣

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。