根来寺の歴史を語る上で避けて通れないのが、戦国時代末期に迎えた劇的な興亡劇です。平安時代末期、高野山の改革を志した覚鑁(かくばん)上人によって開創された根来寺は、鎌倉時代から室町時代にかけて寺領を拡大し、最盛期には2,700棟もの堂塔を抱える大宗教都市へと発展しました。
巨大な経済力を得た寺院は、自衛と領地防衛のために武装化を進めます。これが歴史に名高い「根来衆」です。彼らが戦国史の表舞台に躍り出た最大の契機は、種子島に伝来したばかりの鉄砲の導入でした。僧兵の津田監物(算長)が火縄銃を根来へ持ち帰り、寺領内で刀鍛冶の技術を応用して独自の量産体制を確立。瞬く間に1万丁を超える鉄砲部隊を編成し、織田信長や徳川家康ら中央の覇権争いにも影響を与える屈指の軍事勢力へと変貌を遂げたのです。
しかし、天下統一を推し進める豊臣秀吉にとって、統制の利かない強大な宗教軍事勢力は見過ごせない脅威でした。小牧・長久手の戦いにおいて家康側と結んだ根来衆に対し、秀吉は天正13年(1585年)、10万人規模の大軍を率いて紀州征伐を敢行します。圧倒的な兵力差の前に根来寺は包囲され、無数の堂宇が一夜にして灰燼に帰しました。
その凄惨な焼き討ちの中で、奇跡的に倒壊を免れた建造物が国宝・根来寺大塔(多宝塔)です。大塔の周囲を取り囲む白壁や太い円柱には、寄せ手が放った火縄銃の弾痕が今も数多く残されており、戦火の凄まじさを現在に伝えています。周囲の建物が次々と焼け落ちる中、なぜこの巨大な大塔が焼け残ったのかについては、建物の間に適度な空間があったことや、大塔自体の堅牢な構造、さらには秀吉軍側もその荘厳な美しさに圧倒されて意図的な全焼をためらったなど、複数の証言や記録が交錯しています。