本作が「理不尽の極致」と評される最大の分岐点こそが、警察官ビルによる卑劣な裏切りと、その後の法廷闘争におけるセルマの沈黙です。
セルマはある日、ビルから「妻リンダの浪費癖によって破産寸前に追い込まれており、家を差し押さえられる寸前だが、世間体と警官としてのプライドから妻に打ち明けられない」という絶望的な告白を受けます。セルマはビルを心から信頼し、自分もまた「目がほとんど見えておらず、息子の手術のために全財産を隠し持っている」という最大の秘密を打ち明けました。弱者同士の秘密の共有――それが、最悪の悲劇を招く引き金となります。
金に困り果てたビルは、セルマが目の見えない隙を突いてトレーラーに侵入し、彼女が血の滲む思いで貯めた2052ドルを強奪します。盗難に気づいたセルマはビルの自宅へ直談判に向かいますが、ビルは金を返すことを拒否するだけでなく、拳銃を取り出して自暴自棄に狂乱しました。「金を返してほしければ、私を撃て。私は破滅した。死ぬ勇気がないから、お前が私を殺してくれ」と懇願するビル。もみ合いの末、視力をほぼ失っていたセルマはパニック状態で引き金を引き、瀕死のビルにとどめを刺して金を取り戻します。
彼女はその足で病院へ向かい、眼科医に「息子が来たらすぐに手術をしてほしい」と前払いで金を託しました。その後、警察に逮捕されたセルマを待っていたのは、完全な冤罪劇でした。
法廷で検察側は、セルマを「共産圏からやってきて親切な警察官を色仕掛けで誘惑し、金を強奪して冷酷に虐殺した凶悪犯」として仕立て上げます。ビルの妻リンダも「夫を奪われた」とセルマを激しく罵倒しました。セルマは真実を話せば無罪、あるいは大幅な減刑を勝ち取ることが可能でした。しかし、彼女は法廷で頑なに口を閉ざし続けます。
なぜ彼女は死刑の判決を甘んじて受け入れたのか。その理由は極めて明確であり、同時に痛切なものでした。
一つは、「ビルの破産という恥辱の秘密を墓場まで持っていく」とビル本人と交わした約束を、愚直なまでに守り続けたこと。そして何よりも決定的だったのは、親友のキャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)や思いを寄せるジェフが奔走して見つけてきた敏腕弁護士を雇えば、眼科医に前払いした2052ドルを手術費用から弁護士報酬へと振り替えなければならなかったからです。
「息子の視力を犠牲にしてまで手に入れる自分の命に、何の意味があるのか」。セルマにとって、息子の目を治すことは自分の存在意義そのものでした。自己弁護のために金を使えばジーンは失明する。ならば自らが冷酷な殺人者として絞首台に登ることこそが、息子に光を与える唯一の道だったのです。