「普段は家族の膝の上で眠るほどおとなしい愛犬が、ある日突然、獣のように唸り声を上げて家族に噛みついた」という悲痛な相談が動物病院やドッグトレーナーへ持ち込まれるケースは後を絶ちません。犬が突然凶暴化する理由を感情論で捉えてはなりません。そこには、生理学的・神経学的なトリガーが潜んでいます。
第一に疑うべき要因は、「激痛や身体疾患に起因する防衛反応」です。犬は本能的に自身の弱みや痛みを隠す習性がありますが、変形性関節症、椎間板ヘルニア、重度の歯周病、あるいは中耳炎などを患っている場合、患部に無防備に触れられた瞬間に激痛が走り、反射的に牙を剥きます。また、高齢期における認知機能不全症候群(認知症)や脳腫瘍、てんかんの一種である「突発性激怒症候群(Rage Syndrome)」など、神経系の器質的病変が攻撃行動を直接引き起こすケースも獣医学的に広く確認されています。
第二の要因は、心理的な「転嫁攻撃(Redirected Aggression)」と防衛の暴走です。窓の外を通り過ぎる他の犬やバイクに対して強いフラストレーションや恐怖を抱いている最中、背後から飼い主が不用意に身体を掴んだ際、抑圧された攻撃衝動がそのまま目の前の飼い主へ振り向けられる現象を指します。恐怖によって逃げ場を失った犬は、「ファイト・オア・フライト(闘争か逃走か)」の極限状態に追い込まれ、生き残るための最終手段として牙を用います。
さらに深刻なのが、現代のペット飼養における「過度な擬人化(Anthropomorphism)の罠」です。「この子は人間の言葉が全部わかっている」「家族を親や兄弟だと思っている」という盲信は、犬が発する微細なストレスサイン(カーミングシグナル:舌をペロリと出す、あくびをする、視線をそらす、身体を硬直させるなど)を見落とす原因となります。犬側の「これ以上近づかないでほしい」「嫌だからやめてほしい」という警告を人間側が「甘えている」「喜んでいる」と認知の歪みによって誤認し続けた結果、限界点に達した犬が最後の防衛手段として噛みつきに訴える構図が浮き彫りになっています。