なぜ西行は、これほどまでに死の迎え方にこだわり抜いたのでしょうか。その動機を紐解くには、華々しいエリート武士から一転して無一物の僧侶となった西行法師 生涯 経歴の特異性を知る必要があります。
西行の本名は佐藤義清(さとう のりきよ)。元永元年(1118年)、代々朝廷を軍事面で支えた名門・俵藤太(藤原秀郷)の血を引く武士の家系に生まれました。若くして鳥羽上皇の身辺を警護する精鋭部隊「北面の武士」に抜擢され、武芸百般、とりわけ流鏑馬(やぶさめ)や兵法に秀でていただけでなく、和歌や蹴鞠にも類まれな才能を発揮する当代屈指のエリート青年でした。
ところが保延6年(1140年)、義清は23歳の若さで突如として出家を遂げます。将来を嘱望された地位、何不自由のない一族の財産、そして妻子までもすべて投げ捨てての電撃的な遁世でした。この願わくば花の下にて春死なん 背景 詳細には、平安末期の社会的激変と個人的な苦悩が複雑に絡み合っています。
出家の動機としては、古来いくつかの説が語り継がれています。
- 親友の急死:同じ北面の武士であった同僚(佐藤憲康とされる)の突然死を目の当たりにし、人の命の儚さを痛感したとする説
- 高貴な女性との失恋:待賢門院(鳥羽上皇の皇后・藤原璋子)をはじめとする身分違いの女性との悲恋に破れたとする説(『源平盛衰記』等に描かれる伝承)
- 乱世への絶望と末法思想:武士階級の台頭によって貴族秩序が崩壊し、保元の乱・平治の乱へと向かう殺伐とした政情、および「仏法が衰退する」とされた末法思想への強い危機感
出家して「円位(えんい)」、のちに「西行」と名乗った彼は、特定の寺院に定住して権力を握るエリート僧の道を徹底して拒絶しました。京都の嵯峨や鞍馬に庵を結んだのち、吉野の山中深く分け入り、陸奥(東北地方)や四国・讃岐への過酷な巡礼の旅へと身を投じます。世俗のしがらみを断ち切り、孤独の中で自然と対峙し続けた半世紀にわたる放浪生活こそが、死を恐るべき終焉ではなく「現世の苦患からの完全な解放」と捉える強靭な死生観を醸成したのです。