成田空港「空と大地の歴史館」激闘の真相とは?見どころを徹底解説

成田空港「空と大地の歴史館」激闘の真相とは?見どころを徹底解説

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なぜ、これほどまでに激しい反対運動が巻き起こったのか。その根本的な原因は、1960年代の高度経済成長期における国の強引な意思決定プロセスにありました。

羽田空港の処理能力限界を見越し、政府は1966年7月4日、突如として「新東京国際空港」の建設地を千葉県成田市三里塚周辺とする閣議決定を行いました。当初計画されていた富里・八街地域での激しい反対運動に直面した政府が、規模を縮小した上で、御料牧場など国有地が比較的多かった三里塚へ一方的に白羽の矢を立てたのです。

しかし、この決定は地元農民への事前説明や対話が一切ない「寝耳に水」の通告でした。この土地は、戦前・戦後にわたって入植した開拓農民たちが、鬱蒼とした原野を鍬一本で切り拓き、血と汗を流してようやく豊かな農地へと育て上げた場所でした。先祖代々の土地、そして自ら開拓した愛着ある大地を一方的に奪われることに対し、農民たちは「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成し、激しい抵抗を始めます。

その後、1960年代後半から1970年代にかけて、反戦運動や学生運動(新左翼党派)がこの農民運動に合流。運動は政治的なイデオロギー闘争の色彩を帯び、過激化していきました。政府側も土地収用法に基づく「行政代執行」を強行し、数千人規模の機動隊を投入。農民や支援学生側は砦を築き、地下壕を掘り、火炎瓶や投石で対抗しました。

1971年の代執行では警察官3名が殉職する痛ましい事態(東峰十字路事件)が発生し、1978年の開港直前には管制塔占拠事件によって開港が延期されるなど、双方に深い傷跡と多数の犠牲者を残す昭和史最大の流血の社会問題へと発展したのです。

池田 達也
著者

池田 達也

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。