『生々流転』を鑑賞する上で、多くの専門家や愛好家が議論を重ねてきた核心部分が、巻末に突如として出現する「龍」の存在理由です。
大河が海に注ぎ、暗雲が立ち込める大嵐の中で画面は最高潮の緊張を迎えます。その激浪の彼方、黒雲の裂け目から姿を現す一匹の黒龍。なぜ大観は、現実世界の水の旅路の終着点に、架空の幻獣を描き込んだのでしょうか。
東洋思想において、龍は「雨雲を司り、水を自在に操る神霊」とされてきました。海に注ぎ込んだ水は、太陽の熱と大気の力によって蒸発し、雲となり、再び天へと還っていきます。その自然の不可視な物理的エネルギーを、東洋的象徴主義として具現化したものが龍に他なりません。
龍が巻き起こす雨雲は、やがて再び山へと雨を降らせ、冒頭の「木々の葉から滴る一滴の露」へと回帰します。すなわち、終わりは始まりであり、破壊は大自然の再生を内包しているという「輪廻転生(生々流転)」のメタファーなのです。
近代化によって人間中心主義や自然破壊が加速し始めた大正期において、大観は自然に対する畏怖の念と、人間もまた自然の巨大な循環システムの一部に過ぎないという哲学的メッセージを、龍の姿を借りて強烈に提示したと言えます。