現在でこそフランスの栄光を象徴するエッフェル塔だが、その誕生劇は激しい誹謗中傷と批判の嵐の中にあった。建設の契機となったのは、フランス革命100周年を記念して開催された1889年のパリ万国博覧会 歴史である。
万博の目玉として「前人未到の高さ300mの鉄塔」を提案したのが、橋梁建設で名を馳せていた技師ギュスターヴ・エッフェルだった。しかし、石造りの優雅な建造物が立ち並ぶ当時のパリにおいて、むき出しの鉄骨が天を突く異形のデザインは激しい拒絶反応を引き起こす。作家のギ・ド・モーパッサン、詩人のヴェルレーヌ、オペラ座を設計したシャルル・ガルニエら、当代一流の芸術家300人が連名で「エッフェル塔反対声明」を新聞に発表。「巨大で醜悪な工場の煙突」「パリの美観に対する冒涜」と激しく糾弾したエピソードは有名だ。
当時交わされた契約では、万博終了から20年後の1909年に塔を解体し、土地をパリ市へ返還することが明確に定められていた。撤去のタイムリミットが迫る中、ギュスターヴ・エッフェルは塔を存続させるための起死回生の戦略を打ち出す。自費を投じて塔頂部に気象観測所や天文観測設備を整備し、さらには当時最先端の技術であった「無線電信」の実験基地として軍部に塔の利用価値を猛アピールしたのである。
自著や当時の手記においてエッフェルは、「この塔は単なる見世物ではない。科学と防衛の発展を支える観測基地として国家に不可欠な存在になる」と確信を込めて書き残している。その予見は見事に的中した。1914年に勃発した第一次世界大戦の「マルヌの戦い」において、エッフェル塔の無線アンテナがドイツ軍の通信を傍受し、フランス軍の反撃に決定的な貢献を果たしたのだ。軍事戦略上の重要拠点となったことで解体計画は永久に白紙撤回され、塔は「国の命を救った守護神」としてパリに聳え立ち続ける権利を勝ち取った。