慶長5年(1600年)、天下の趨勢は急速に徳川家康へと傾いていました。会津の上杉景勝討伐のため、大谷吉継は当初、家康の命に従って越前敦賀から軍勢を率いて出陣しています。道中、近江の佐和山城に立ち寄った吉継に対し、旧友の石田三成から打ち明けられたのは「徳川家康に対する電撃的な挙兵計画」でした。
この告白を受けた吉継は、驚愕とともに三成の短慮を厳しく諌めています。当時の諸大名の勢力図、兵力差、そして何より人心が家康に向いている現実を冷静に分析していた吉継は、「勝機は皆無であり、無謀な挙兵は豊臣家を滅ぼす元凶になる」と三度にわたって必死の説得を試みました。しかし、三成の決意が絶対に揺るがないことを悟った瞬間、吉継の態度は一変します。「三成が討ち死にするならば、自分もともに討ち死にする」と腹を括り、敗北の結末を予期しながら西軍の主力として立つ道を選びました。
当時の武将の行動原理の多くは領地保全や自己保身であり、勝ち馬に乗ることが常識でした。そのなかで、勝敗の行方を正確に理解したうえで友の情義に殉じた吉継の決断は、戦国期においても極めて特異な精神性の現れとして語り継がれています。