米英の思惑が激突する中、極限の選択を迫られたのが当時の日本国首相、吉田茂であった。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下から一日も早く脱却し、主権を回復することを目指した日本にとって、講和条約の成立は絶対命題だった。しかし、米国上院は条約批准の条件として、台湾の政権との講和締結を日本に厳しく迫る。
ダレスから強い政治的圧力を受けた吉田は、苦しい決断を下すこととなる。外務省内部の慎重論や、将来的な中国本土との取引再開を望む財界の声を押しのけ、吉田は台湾の中華民国政府と国交を結ぶ意向を示す書簡(いわゆる「ダレス・レター」)を米国に送付。これにより1952年、日本は台北で日華平和条約を締結した。近現代史におけるこの選択が、その後の日本外交の舵取りを長期にわたって縛り続けることになった。