舞台はスイス・ジュネーブの国際連盟本部へと移ります。1932年12月、日本はリットン報告書の審議に臨むため、外務省随一の論客として知られた松岡洋右(まつおか ようすけ)を全権代表として送り込みました。
松岡は流暢な英語を武器に連盟総会で熱弁を振るいました。特に有名なのが「十字架上の日本」と称される演説です。松岡は「日本は今、国際社会の批判を一身に浴びて十字架に磔にされている。しかし数年後には、中東の狂乱を鎮めたイエスのように、日本の行動が正しかったと理解される日が来るだろう」と訴え、西洋諸国によるかつてのアジア侵略の欺瞞を突きました。
しかし、国際社会のルールであるヴェルサイユ体制や不戦条約を武力で塗り替える行為を連盟が追認することは、国際秩序の崩壊を意味していました。小国を中心に日本の軍事行動への警戒感は日増しに強まっていきます。
そして1933年2月24日、運命の国際連盟総会が開かれます。リットン報告書を基にした「勧告案」(満州国の不承認、日本軍の鉄道付属地への撤退、中国主権下での自治を求める案)の採決が行われました。
結果は、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)という、あまりにも一方的な数字でした。「42対1」という圧倒的な大差がついた瞬間、松岡洋右は議場に立ち上がり、「連盟の勧告を受諾することは到底不可能である」と宣言。深々と一礼すると、随員たちを引き連れて静かに議場を後にしました。そして翌月3月27日、日本政府は国際連盟からの正式脱退を通告したのです。