市川右團次という名跡は、上方(関西)歌舞伎にルーツを持つ名門の大名跡です。二代目市川右團次が1936年に没して以降、約80年もの間、後継者が存在しない「空き名跡」となっていました。その名跡をなぜ、初代市川右近が襲名することになったのか、そこには深い歌舞伎界の歴史と人間ドラマが存在します。
もともと右團次は、日本舞踊飛鳥流の家元・飛鳥峯王の長男として大阪に生まれました。歌舞伎役者の家系ではなかったものの、その非凡な才能を見込まれ、1975年に三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁)の「部屋子」として入門。「初代 市川右近」として、澤瀉屋(おもだかや)が推進した『ヤマトタケル』などのスーパー歌舞伎で獅子奮迅の活躍を見せました。
しかし、50代を迎え自身の芸の集大成を模索する中で、上方出身の役者として上方発祥の大名跡「市川右團次」を復活させる構想が浮上します。この大英断を強力に後押ししたのが、現代の歌舞伎界を牽引する市川宗家(成田屋)・十三代目 市川團十郎白猿(当時・市川海老蔵)でした。
市川宗家の理解と支援を受け、屋号を「髙嶋屋」、定紋を市川宗家ゆかりの「三升に右(みますにみぎ)」と定め、2017年に約80年ぶりの名跡復活が実現しました。澤瀉屋で培ったダイナミックなアクションと上方歌舞伎の粋、そして成田屋の重厚な芸風が融合した稀有な役者として、現在の右團次ブランドが完成したのです。