織田信長「楽市楽座」の真実|なぜ税を免除し座を解体したのか

織田信長「楽市楽座」の真実|なぜ税を免除し座を解体したのか

織田信長「楽市楽座」の真実|なぜ税を免除し座を解体したのかに関する専門家の意見を丁寧に解説いたします。

学校教育や歴史ドラマの影響で「楽市楽座は信長がゼロから考え出した独創的なアイデア」と信じられがちですが、これは歴史学的には明確な誤解です。日本で最初に楽市令を発布したのは、近江(滋賀県)の有力守護大名・六角定頼(ろっかくさだより)です。

六角定頼は信長に先立つ1549年(天文18年)、自らの本拠地である観音寺城の城下・石寺新市において楽市令を発布しました。定頼は城下に商人を誘致するため、従来の座商人による独占を制限し、自由な出店を認めました。信長は近江平定の過程でこの六角氏の先進的な領国経営を吸収し、発展的かつ過激にブラッシュアップして活用したに過ぎません。

では、六角定頼の施策と織田信長の政策にはどのような違いがあったのでしょうか。客観的な事実と歴史的条件を以下の比較表にまとめました。

項目詳細・数値データ一般的な基準・相場(当時の中世社会)編集部の見解・評価先駆者の実績(六角定頼)1549年に石寺新市で発布。座の特権を一部制限し、新参商人の参入を許可。守護・領主は座から冥加金を徴収し、座の独占権を保護するのが通例。限定的な規制緩和。既存の座組織との全面対決は避け、共存を図る漸進的改革。織田信長の政策(加納・安土)1567年加納、1577年安土。市場税・屋敷役の全面免除、徳政令除外。市場ごとに座商人が関銭や市場税を徴収し、価格を吊り上げるのが常態。関所の全面撤廃や道路整備とセットで推進。商業を軍事兵站へ昇華させた点で圧倒的に過激。豊臣秀吉の全国展開1585年頃以降、全国の座の解体を命じ、京都・大坂など直轄地で市場を掌握。各大名がそれぞれの領国内でのみ商業ルールを定めていた。信長の手法を中央集権的な国家法として全国へ拡大。近世封建社会の基礎を固めた。

決定的な違いは、信長が「関所の撤廃」と「広域道路網の整備」を同時に断行した点にあります。いくら市場で税を免除しても、道中に無数の関所が残っていては物流は滞ります。信長は自領内の私的な関所をことごとく破却し、関銭(通行税)を全廃しました。これにより、商品が安価かつ驚異的なスピードで安土や岐阜へ流入する環境を整備したのです。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。