中曽根氏の軍歴において最も過酷を極めたのが、1942年1月の蘭領東インド(現インドネシア)ボルネオ島・バリクパパン攻略作戦でした。石油資源の確保と航空基地建設を目的とした海軍第二設営班の主計長として、約3,000名の軍属・作業員を率いて戦地へ向かいました。
当時、第六戦隊旗艦であった重巡洋艦「青葉」などが護衛する輸送船団で上陸を目指したものの、泊地で連合軍の潜水艦および駆逐艦隊による猛烈な奇襲攻撃に遭遇します。僚船が次々と魚雷の直撃を受けて火柱を上げ、海面は重油と炎に包まれました。
中曽根氏が乗船していた輸送船も至近弾を受け、混乱の中で多くの戦友や民間軍属が海に投げ出されて命を落としました。九死に一生を得てバリクパパンに上陸した直後、若き主計中尉に課された過酷な任務は、回収された戦死者の遺体荼毘(火葬)と埋葬作業でした。
自著『終わりなき海軍』の中で、氏は「自らの手で戦友の遺骸を積み上げ、重油をかけて荼毘に付したときの煙と匂いは、生涯消えることがない」と記しています。この凄惨な体験が、単なる机上の理論ではない「国家の生々しい犠牲」を肌で知る決定的な契機となりました。