西洋的な因果分析が広まる遥か昔から、東洋哲学は「善悪の絶対的な境界」に対する疑問を投げかけてきました。その代表例が、中国の古典『淮南子』に記された「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」です。
城壁の近くに住む老人の馬が隣国へ逃げてしまった(悪いこと)が、その馬が駿馬を連れて戻ってきた(良いこと)。老人の息子がその駿馬から落馬して足を骨折した(悪いこと)が、その骨折のおかげで戦争への徴兵を免れ命拾いをした(良いこと)。この説話が教える本質は、「何が良いことで何が悪いことかは、後になってみなければ誰にも分からない」という事実です。
また、『史記』南越列伝に見られる「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という言葉も、災いと幸福はより合わせた一本の縄の表と裏のように密接に結びついており、交互に現れる様を表しています。
歴史上の偉人や一流アスリートの手記を紐解いても、キャリア最大の挫折(大きな怪我や事業の倒産)こそが、従来の欠陥を根本から見直し、より強固な基盤を構築するための契機となったという告白に枚挙にいとまがありません。事象そのものに「良い」「悪い」という属性が付着しているのではなく、「起きた出来事に対して人間が下す解釈と、その後の行動」こそが、その事象の吉凶を決定づけるのです。