1918年(大正7年)9月、米騒動の激化によって寺内正毅内閣が総辞職に追い込まれた後、大命降下を受けた原敬。陸海軍大臣と外務大臣を除く閣僚すべてを立憲政友会の党員で固めた内閣は、日本憲政史上における「本格的政党内閣」の幕開けを告げるものでした。この時、新聞各紙が一斉に掲げたキャッチコピーこそが平民宰相です。
原以前にも大隈重信のように政党を率いた首相は存在しましたが、当時の首相経験者は皆、華族(侯爵や伯爵)の爵位を帯び、貴族院を足場にしていました。対して原敬は、戸籍上紛れもない「平民」であり、かつ国民の投票によって選ばれた衆議院議員の身分のまま首相に就任したのです。国民はこの事実に熱狂し、特権階級の支配が終わり民主的な新時代が訪れたと歓喜しました。
しかし、原敬が平民の身分であったのは、単なる偶然ではありません。日露戦争後の功績などにより、山県有朋ら元老から幾度となく男爵や子爵の爵位授与を打診されながら、原は頑なにこれを断り続けました。その背後には、徹底した権力構造への冷徹な計算が存在していたのです。
華族となり貴族院へ移籍すれば、選挙区の支持母体を基盤とする政党政治家としての強みが奪われ、藩閥元老の巨大な権力機構に取り込まれて無力化してしまう――原はそれを熟知していました。衆議院第一党を率いる党首として議院内閣制の定着を目指した原にとって、「平民」であり続けることは庶民派のポーズではなく、藩閥政治を打ち破るための最強の政治的防壁だったのです。