尾崎行雄の剛速球伝説が産声を上げたのは、大阪の名門・浪商高校(現・大阪体育大学浪商高校)時代でした。1961年、当時2年生だった尾崎は、すでに高校球界のレベルを完全に逸脱した球威を誇り、メディアやファンから畏敬を込めて「怪童」と呼ばれるようになります。
この時代の高校野球シーンを象徴するのが、法政二高のエースとして甲子園連覇を目指していた柴田勲(後の読売ジャイアンツ)とのライバル関係です。1961年のセンバツ準決勝で両者は激突。大延長の末に敗れた悔しさを糧に、同年夏の第43回全国高等学校野球選手権大会で尾崎は驚異的な投球を披露します。準決勝で法政二高と再戦し、柴田との投げ合いを制してリベンジを果たすと、決勝でも快投を演じて甲子園優勝の栄冠を掴み取りました。
当時の甲子園のスタンドは、尾崎が投げるたびに捕手のミットが乾いた破裂音を響かせ、打者がストレートにかすりもせず三振の山を築く異様な光景に包まれていました。高校2年生にして全国の頂点に立った怪童の剛腕は、もはや学生野球の枠に収まりきらない怪物へと進化を遂げていたのです。