「日野富子が我が子を将軍にしたいために実弟の義視を敵視し、応仁の乱を起こした」というストーリーは、長年にわたり定説と信じられてきましたが、現代の歴史学界では明確に否定されています。
応仁の乱が勃発した根本的な原因は、以下の3つの構造的要因が同時に暴発したことにあります。
- 管領家(斯波氏・畠山氏)の激しい家督争い:斯波義廉と斯波義敏、畠山義就と畠山政長が、それぞれの領国と幕府要職を巡って軍事衝突を繰り返していた。
- 幕府二大有力守護の覇権争い:西軍の雄である山名宗全と、東軍を率いる管領・細川勝元による幕政の主導権争いが限界点に達していた。
- 足利義政の優柔不断な裁定:将軍としての指導力を欠いた義政が、家督争いの調停において双方にいい顔をして朝令暮改の判断を繰り返し、対立を決定的に激化させた。
一次史料を検証すると、寛正6年(1465年)に義尚が生まれた後も、富子と義視の間には直ちに決定的な対立が生じていたわけではありません。義視は義尚の「烏帽子親(元服の後見人)」を務めるなど、初期段階では協力関係が模索されていました。大乱が始まった当初、義政と富子、そして義尚と義視は全員が東軍陣営(細川勝元側)の室町第におり、義視は東軍の総大将格として陣頭指揮を執っていたのです。
事態が急変したのは、細川勝元との権力闘争に敗れた義視が身の危険を感じて出奔し、敵陣である西軍に擁立されたことによるものです。つまり、富子の母性本能や野心が戦争を引き起こしたのではなく、守護大名たちの巨大な軍事衝突の渦の中に、将軍家の後継問題が都合よく利用され、巻き込まれていったのが歴史の真実です。