インターネット上や恋愛指南書において、この言葉の元祖は夏目漱石であると広く語り継がれてきました。英語教師を務めていた漱石が、生徒が「I love you」を「我君を愛す」と直訳したのを窘め、「日本人はそんなことは言わない。『月が綺麗ですね』とでも訳しておきなさい。それで想いは通じるものだ」と教えたという美談です。
しかし、近年の国文学者や図書館によるレファレンス調査の進展に伴い、「月が綺麗ですね」の由来は嘘(俗説)ではないかという疑問が決定的な事実として浮上しています。
実態を精査すると、岩波書店が刊行する膨大な『漱石全集』や当時の弟子たちの回想録・日記をいくら探索しても、漱石が教壇でその発言をしたという一次資料的証拠は一切確認されていません。国立国会図書館の調査記録などでも、このエピソードの初出は昭和後期から平成初期にかけてのエッセイやラジオ番組、あるいは作家の創作講義が混ざり合って流布したものと推定されています。
一方、対照的に確かな原典が存在するのが、文豪・二葉亭四迷の翻訳です。四迷はロシアの文豪ツルゲーネフの小説『あひゞき』を翻訳した際、女性が男性へ向けて発した「Ваша(私はあなたのもの)」という言葉を「死んでもいいわ」と訳しました。この情熱的かつ覚悟に満ちた意訳は紛れもない歴史的文献として刻まれており、いつしか漱石の俗説と対をなす形で、文学的告白のアンサーとして愛好されるようになりました。