『あざみの歌』の叙情性を決定的な芸術へと昇華させたのが、歌手・伊藤久男の天賦のボーカルです。
福島県本宮市出身の伊藤久男は、裕福な素封家の次男として生まれ、東京の帝国音楽学校で本格的な声楽(テノール・バリトン)を学びました。同郷の大作曲家・古関裕而に見出されてコロムビア専属となり、力強く伸びやかな美声で昭和初期から戦後にかけて歌謡界の頂点に君臨しました。
伊藤久男の歌唱力と評判は、当時の芸能界でも群を抜いていました。クラシックの発声技術に裏打ちされた強靭な声量と、マイクに息を吹き込むように繊細にささやく「クルーナー唱法」を自在に使い分ける技術は唯一無二でした。ダイナミックな『イヨマンテの夜』で見せた野性味あふれる絶唱と、『あざみの歌』で見せたどこまでも優美で切ない弱音のコントロールは、同一の歌手とは思えないほどの表現の幅広さを誇っています。
2020年に放送されたNHK連続テレビ小説『エール』では、山崎育三郎演じる「佐藤久志」のモデルとして伊藤久男が描かれ、その華やかなスター性と音楽にかける真摯な情熱が令和の視聴者にも強烈な感動を与えました。