施設内に連行された人々を待っていたのは、人権を徹底的に剥奪された非人間的な環境でした。収容者は青い作業服を着せられ、名前ではなく番号で呼ばれました。脱走を防ぐため、高い塀と有刺鉄線、監視塔が張り巡らされ、軍隊の階級を模した「小隊」「中隊」に組織されて相互監視を強いられました。
内部では日常的に激しい殴打や拷問が行われ、女性や児童に対する性的暴行も横行していました。収容者は施設が運営する工場での金属加工や縫製、敷地造成や建物の建設工事といった無賃金での重労働を早朝から夜遅くまで強制され、反抗した者は懲罰房で見せしめとして命を落とすまで虐待されました。
公式記録で確認されているだけでも、1975年から1986年の12年間に施設内で513人が死亡しています。しかし、これは帳簿に記載された一部に過ぎず、虐殺された遺体が人知れず山林に埋められたり、近隣の医科大学へ解剖用実習遺体として1体あたり数万ウォンで密売されていた事実も後に明らかになりました。実際の犠牲者数はこれをはるかに上回るとみられています。