『花』が単なる無邪気な春の歌に終わらず、聴く者の心を強く締め付ける深い余韻を残す最大の要因は、その卓越した和声進行にあります。音楽理論の観点から本作を解剖すると、滝廉太郎の並外れた構成力が見えてきます。
本作の基本調性は明るく開放的なト長調(G major)であり、リズムにはイタリアのゴンドラ漕ぎの歌に由来する優美な「8分の6拍子(舟歌・バルカロール)」が採用されています。ところが、曲の中間部にあたる「見ずやあけぼの」「見ずや夕ぐれ」の部分において、楽曲は突如として同主短調であるト短調(G minor)へとドラマティックに転調します。
この花 滝廉太郎 楽曲分析 短調の転換こそが、楽曲に劇的な深みを与えている決定的なポイントです。春の華やかな光の中にふと立ち込める朝霧の冷気、あるいは黄昏時に川面を覆う一抹の寂寥感。明から暗へ、そして再び「ながめを何に」で圧倒的なト長調の光へと回帰していくダイナミズムは、まさに浮世のはかなさと春の瞬間の輝きを対比させる日本の伝統的無常観と完全に共鳴しています。
当時、文部省の音楽取調掛以来の唱歌教育では、単純な主要三和音(ド・ミ・ソなど)による長調の平板な曲調が絶対的な規範とされていました。弱冠21歳の青年・滝廉太郎が、短調への転調や繊細な経過和音を堂々と組み込み、詩の情景と完全に合致する音響空間を作り上げたことは、当時の音楽界において極めて革新的な事件でした。