長野県辰野町の大城山に「日本中心の標」が建立された背景には、明治期に端を発する近代国家の国土測量プロジェクトが存在します。当時、正確な日本地図の作成を担っていたのは、帝国陸海軍の測量を一手に引き受けていた参謀本部陸地測量部(現在の国土交通省国土地理院の前身)でした。近代的な測量技術が導入される中、当時の測量技術者たちが日本列島の東西南北の極端(最東端・最西端・最南端・最北端)を定規で結び、その対角線が交差する幾何学的な中央値を割り出したところ、その座標軸が指し示したのがまさに長野県上伊那郡辰野町の大城山山頂付近だったと伝えられています。
この算出データに基づき、辰野町は1969年(昭和44年)に「日本の中心の町」を宣言し、大城山の山頂に記念すべき最初の標柱を建立しました。現地に設置された説明板や辰野町の歴史資料を紐解くと、当時の町民たちが郷土の誇りとしてこの地を位置づけ、山頂への道を手作業で整備していった熱意が記されています。その後、風雨にさらされた木柱の腐食対策や観光資源としての整備が進められ、展望デッキの設置や堅牢な石碑の増設が行われて現在の姿に至っています。
一部で「単なる自治体の観光誘致によるこじつけではないか」という冷ややかな見方をされることもありますが、根拠のない思いつきではなく、国家機関であった旧陸地測量部の計算結果を忠実に継承した歴史的モニュメントであることが、この標柱の持つ確かな重みといえます。