2020年1月から横浜地方裁判所で行われた裁判員裁判において、法廷を包んだのは異様な空気でした。公判廷では被害者保護の観点から「被害者特定事項秘匿制度」が適用され、亡くなった19人の犠牲者は「甲A」「甲B」、負傷者は「乙A」といった無機質な符号で呼ばれたのです。検察官が読み上げる起訴状の中で、人間としての名前を奪われ、アルファベットで列挙される光景に対し、傍聴席や法曹関係者からも「被害者の命が記号化されているのではないか」と動揺が走りました。
こうした流れに一石を投じたのが、当時19歳で命を奪われた「美保さん」の母親の存在です。母親は公判の中で、「美保という可愛い名前がありました。記号ではなく、美保として裁判に参加したい」と代理人弁護士を通じて手記を公表しました。そこには、わずか数行の属性情報では決して伝わらない、音楽が好きで、家族に笑顔を振りまき、懸命に生きていた一人の女性の確かな人生が克明に綴られていました。
しかし、美保さんのように名前を明かす決断ができたケースはごく一部です。現場取材に当たった記者たちの証言によると、多くの遺族は「親族の結婚や就職に影響が出る」「近隣住民に施設入所を知られたら地域にいられなくなる」と怯え、沈黙を守り続けざるを得ませんでした。名前を伏せる選択をした遺族の背景には、冷淡さではなく、今なお障害者とその家族を取り巻く過酷な偏見と差別という、日本社会の構造的病理が横たわっています。