永禄6年(1563年)、若き松平家康(後の徳川家康)の領国・三河を二分する内乱となったのが「三河一向一揆」です。領主権力の強化を図る家康と、不輸不入の特権を守ろうとする本證寺・上宮寺・勝鬘寺ら一向宗寺院が激突。このとき、熱心な一向宗(浄土真宗)の門徒であった渡辺守綱は、主君ではなく信仰を選び、一揆勢の軍勢に身を投じました。
当時の三河武士団において、信仰と主従関係の板挟みに苦しんだ者は少なくありませんでした。守綱は一揆軍の先頭に立って松平軍を大いに苦しめ、家康直属の家臣たちと命懸けの白兵戦を展開します。翌永禄7年(1564年)に一揆が鎮圧された際、本来であれば首を刎ねられても弁明できない立場でした。しかし、家康が下した裁定は「罪を不問に付しての参向許可」という驚くべき寛刑でした。
家康が守綱を許した最大の理由は、「保身や領地欲ではなく、純粋な信仰心からの離反であったこと」を家康自身が深く見抜いていた点にあります。『三河物語』などの同時代資料を精査すると、家康は敵対した家臣に対し、領主への私憤で寝返った者と、来世の救済を信じるあまり一揆に加担した者を明確に識別していました。守綱は武骨なまでに嘘がつけない男であり、信仰への誠実さは裏を返せば「一度許せば命を捨てて尽くす強固な忠誠心」へと転じる性格だったのです。
加えて、当時の家康は今川氏からの独立直後であり、領内の有力な武官を1人でも多く手元に留めておく必要がありました。並外れた槍の腕前を誇る守綱を処刑することは、自軍の突撃戦力を自ら削る行為にほかなりません。家康の冷徹な実利計算と人間観察眼が、守綱の首を繋ぎ止め、後の不滅の武功へと導く結果となったのです。