三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるとする根拠は、『三国志』魏書東夷伝倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)の記述に端を発します。景初二年(あるいは三年・239年)、卑弥呼が魏の都・洛陽へ派遣した難升米らの朝貢使節に対し、皇帝・曹叡(明帝)は親魏倭王の金印紫綬とともに「銅鏡百枚」を授けたと明記されています。この時期に列島へ持ち込まれた最高級の青銅鏡こそが三角縁神獣鏡であるという見解が、長年にわたり畿内説の支柱となってきました。
考古学者の樋口隆康氏が定義したように、三角縁神獣鏡は直径20センチメートルを超える大型品が多く、縁の断面が三角形で、鋸歯文(きょしもん)帯や複線波文(ふくせんはもん)帯などの外区文様、そして神仙と神獣が配置された内区を持ちます。その圧倒的な造形美と重厚感は、まさに大陸帝国の威信財と呼ぶにふさわしい風格を漂わせています。
しかし、決定的な反論が存在します。中国全土で数万面におよぶ漢・三国・六朝時代の青銅鏡が発掘調査されているにもかかわらず、三角縁神獣鏡は中国大陸から1面たりとも確実な出土例が報告されていません。中国社会科学院考古研究所の元所長である王仲殊氏が「三角縁神獣鏡は中国の鏡ではなく、日本の古墳時代に作られた国産鏡である」と指摘した学説は、日本の学界に巨大な激震を走らせました。皇帝が辺境の女王に下賜した特製品だから中国に残っていないのか、それともそもそも魏とは無関係の鏡なのか。この根本的な問いが、100年に及ぶ論争の原点です。
さらに注目すべきは、同時期の中国江南地方(呉)で盛んに作られていた「画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)」との明確な造形格差です。画文帯神獣鏡は中国各地の墳墓から多数出土しており、図像の立体感や鋳造技術の文脈が中国青銅器史の中にきれいに位置づけられます。一方の三角縁神獣鏡は、縁の断面形態や図像の配置に特異な独自性があり、中国の標準的な鏡の変遷から浮き上がっているのが客観的な実情です。