『車輪の下』を読み終えた読者の多くが、胸のつかえるような重苦しい感覚に囚われます。「あまりの鬱展開に二度と読めない」と評される最大の要因は、作中に明確な「極悪人」が一人も登場しない点にあります。
父ヨゼフは、無骨で無理解な面こそあれど、息子を心から愛し、将来を案じて勉学を後押ししただけの父親です。神学校の教師たちも、ハンスに個人的な恨みを持っていたわけではなく、国家から課された教育基準を厳格に遵守していたに過ぎません。町の人々も、試験前はハンスを褒め称え、落ちぶれた後はどう接していいか分からず距離を置いただけでした。
登場人物の誰もが「ハンスのため」「職務のため」と信じて行動していながら、その善意と無自覚なエゴイズムが組み合わさった結果、一人の少年が破滅へと追いやられていく。この「悪意のないシステムが生み出す暴力」こそが、読者に逃げ場のない恐怖と絶望感を与えます。
この描写がこれほどまでに迫真性を帯びているのは、作者ヘッセ自身の生々しい実体験に基づいているからです。ヘッセ自身、難関のマウルブロン神学校に合格しながらも、学校生活に耐え切れず脱走。自殺未遂を起こして精神科施設へ収容され、時計修理工の見習いとして挫折を味わいました。自身の魂の傷痕をハンスという少年に託して刻みつけたからこそ、1世紀以上の歳月を経てもなお読者の皮膚を裂くような痛烈さを放ち続けています。