『古畑任三郎』全シリーズを通じて、古畑が犯人に暴力を振るったシーンは極めて限定的です。紳士的でユーモアを絶やさず、論理的な話術だけで犯人を追い詰める古畑が、なぜ『赤か、青か』のラストで林功夫(木村拓哉)の頬を激しく平手打ちしたのか。そこには作中の必然性と、現場における役者同士の魂のぶつかり合いが存在していました。
作中におけるビンタの理由は、「人の命をゲーム感覚で弄んだ林の傲慢さに対する激しい怒り」にあります。林は観覧車に乗る無実の市民を人質に取り、古畑に対して「赤のコードを切るか、青のコードを切るか」の二者択一を迫りました。爆破を間一髪で阻止した古畑に対し、林は何の反省もなく「面白かったでしょう?」と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべます。その瞬間、古畑の手が林の頬に炸裂しました。古畑は「君のやったことは、ただの殺人未遂だ」と静かな怒りを込めて吐き捨てます。法と命を軽視する知能犯に対する、刑事としての矜持が発露した瞬間でした。
一方、ファンの間で長年議論されてきた「現場でのアドリブ説」について、脚本を手掛けた三谷幸喜は後年のインタビューで「ビンタは台本に最初からト書きとして書かれていた」と明言しています。しかし、普段は温厚で立ち回りを嫌う田村正和が、木村拓哉に対して一切の手加減なしで本気の一撃を打ち込んだことは現場スタッフの間でも語り草となっています。トップアイドルとして多忙を極めていた木村拓哉に対し、田村正和が一人の本格俳優として全力でぶつかったことで、あの迫真のリアクションが生まれました。