多くの患者が初期の異変を「ただの口内炎」と思い込んでしまう最大の原因は、初期の舌癌がアフタ性口内炎と極めて類似した潰瘍(粘膜のえぐれ)の形態をとる点にあります。しかし、病態生理学のメカニズムを紐解くと、両者の間には修復過程と組織破壊において全く異なる現象が起きています。
通常のアフタ性口内炎は、疲労やストレス、免疫力の低下、粘膜の微小な傷をきっかけに発生します。粘膜のターンオーバー(新陳代謝)は体の中でも極めて速く、通常は1週間、長くとも10日前後で上皮組織が再生し、自然に跡形もなく消失します。これに対して舌癌は、粘膜の扁平上皮細胞が遺伝子変異を起こして無秩序に自律増殖を続ける悪性新生物です。自己治癒能力によって縮小することはなく、2週間以上治らない口内炎の真相とは、自然修復を上回るスピードでがん細胞が周囲の正常組織を破壊・浸潤し続けている状態にほかなりません。
さらに見逃せないのが、病変部が引き起こす自覚症状の変遷です。舌の痛みや出血が起こる理由と経緯を追うと、通常のアフタ性口内炎は発症初期に強い接触痛を伴い、飲食物がしみるものの、日が経つにつれて徐々に痛みが和らいでいきます。一方の舌癌は、初期にはほとんど痛みを伴わないケースが珍しくありません。がん組織が次第に粘膜下層の深部へと根を張り、知覚神経(舌神経)を巻き込むことで、鈍い持続痛や耳の奥へと放散する鋭い痛みへと変化します。また、がん組織は自らを養うために脆弱でいびつな新生血管を急速に張り巡らせるため、歯ブラシがかすかに触れた程度でも簡単に出血を繰り返すようになります。