脇浜寮の歴史における決定的な分水嶺となったのが、1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災です。神戸市中央区脇浜町から灘区・東灘区にかけての一帯は、震度7の激震が直撃した「震災の帯」に位置していました。神戸製鋼所の神戸製鉄所(灘浜・脇浜地区)は高炉が停止し、第三突堤の本社ビルが全壊判定を受けるなど壊滅的な打撃を受けました。
脇浜寮も例外ではなく、建物の構造クラックや内部設備の損壊、配管破断による浸水など壊滅的な被害を被りました。寮生たちの多くは命からがら脱出し、避難所となった近隣の小中学校や製鉄所内の安全エリアへ退避を余儀なくされました。自らも被災者でありながら、地域の救助活動や製鉄所の安全確保に奔走した寮生たちの生々しい記録は、当時の社内報や手記に克明に残されています。
震災後、倒壊の危険性と衛生環境の悪化、そして神戸製鋼所自身の抜本的な事業再構築計画(老朽化した脇浜地区の製造ライン集約と土地の高度利用)が重なり、脇浜寮の解体が決定されました。重機による撤去作業が進むにつれ、昭和の鉄鋼文化を象徴したコンクリートの巨躯は静かに姿を消していきました。
この解体跡地を含む広大な工業用地と社宅街の跡地が中核となり、兵庫県と神戸市が主導したのが「HAT神戸(東部新都心)」の大規模再開発プロジェクトです。人と防災未来センターや兵庫県立美術館といった文化・防災拠点、公営・民間を合わせた約7,000戸規模の住宅群、さらには商業施設「ブルメールHAT神戸」が整備され、震災復興のシンボルエリアとして劇的な再生を成し遂げました。