昭和40年代から50年代にかけて、日本全国の裏社会は神戸に本拠を置く三代目山口組による電撃的な全国侵攻の嵐に晒されていました。隣県である大阪や滋賀が瞬く間に傘下に収まる中、唯一強硬に独立を維持し、進出を阻み続けたのが図越利一率いる京都勢力でした。
昭和35年(1960年)の明友会事件をはじめとする数々の摩擦を経て、三代目山口組の田岡一雄組長は京都への本格進出を企図します。しかし、図越は地の利と強固な結束力を武器に一歩も引かず、激しい睨み合いを展開しました。当時の警察関係者の記録によると、京都府警は市内各地で全面戦争を警戒する厳戒態勢を敷いたとされています。
結果として両雄は全面抗争の破滅を避け、互いの縄張りを侵さない協定(不可侵・平和共存路線)を締結しました。「山陰・近畿の防波堤」として京都を守り切った図越利一の手腕は、裏社会のみならず当時の政財界有力者からも極めて高く評価されることになります。その後、四代目の座を高山登久太郎へ禅譲し、自らは「総裁」へと退きましたが、その発言力は昭和が終わるまで京都の街に絶対的な重みを持って響き渡っていました。