後醍醐天皇の島流しはなぜ起きた?隠岐脱出と倒幕の真相を徹底解説

後醍醐天皇の島流しはなぜ起きた?隠岐脱出と倒幕の真相を徹底解説

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1332年4月、後醍醐天皇は厳重な警護のもと出雲経由で隠岐へと渡りました。配流された場所は、現在の島根県隠岐郡海士町(中ノ島)または西ノ島町と伝えられています。天皇の身柄を監視していたのは、幕府から隠岐守護に任じられていた佐々木清高でした。四方を荒れ狂う日本海に囲まれた孤島からの生還は、常識的に考えれば不可能でした。

しかし、後醍醐天皇は絶望に沈むどころか、着々と反撃の機会を窺っていました。京都や畿内では、皇子である護良親王や、河内の土豪・楠木正成が千早城・赤坂城でゲリラ戦を展開し、幕府の大軍を釘付けにしていました。「本土の幕府軍は揺らいでいる」という情報は、商人や修験者などの独自のネットワークを通じて隠岐の行在所にも届いていたのです。

1333年(正慶2年/元弘3年)閏2月、ついに歴史を動かす脱出劇が決行されます。『太平記』の記述によると、天皇は密かに監視の目を盗み、女房の輿に潜り込んで行在所を脱出。海岸で待ち構えていた忠臣・千種忠顕らとともに小舟に乗り込み、夜の日本海へと漕ぎ出しました。追撃に現れた佐々木清高の軍船を智謀でやり過ごし、命からがら辿り着いた先が伯耆国(鳥取県西部)の名和湊でした。

ここで天皇を迎え入れたのが、日本海海運を掌握していた地方豪族の名和長年です。名和長年は天皇を奉じて険峻な山岳要塞である船上山(せんじょうさん)に立て籠もり、追討に向かった幕府側の守護軍を撃破。この「船上山の勝利」の報が列島中を駆け巡ると、幕府に従っていた有力武将たちの情勢判断は一気に暗転しました。

幕府から天皇追討を命じられて西上していた足利尊氏(当時は高氏)が天皇方に寝返って六波羅探題を急襲・滅亡させ、東国では新田義貞が挙兵してわずか半月で鎌倉を攻め滅ぼしました。後醍醐天皇の隠岐脱出は、鎌倉幕府崩壊のドミノを倒す最後にして決定的な引き金となったのです。

森 瞳
著者

森 瞳

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