宮沢りえの母・光子の壮絶人生|貴乃花破談の真相と最期に遺した愛

宮沢りえの母・光子の壮絶人生|貴乃花破談の真相と最期に遺した愛

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光子氏の戦略が日本中を震撼させた最大の事件が、1991年11月に発売された宮沢りえ写真集『Santa Fe(サンタフェ)』でした。写真家・篠山紀信氏の手によって撮影されたこの作品は、18歳というトップアイドル絶頂期におけるヌード写真集であり、発行部数150万部超という出版界の前代未聞の金字塔を打ち立てました。

「美しい盛りの身体を一流の写真家に残してもらう」という光子氏の並外れた美学とマーケティング感覚は、当時の常識を完全に覆しました。しかしその翌年、世間をさらに大きく揺るがす出来事が起こります。1992年11月、当時の大相撲の若きスーパースター・貴花田(後の第65代横綱・貴乃花)との婚約発表会見でした。若貴ブームの主役と国民的女優の婚約は「世紀のカップル誕生」と日本中を熱狂させました。

しかし、祝福ムードはわずか2か月で暗転します。1993年1月、突如として開かれた破談会見で、りえさんは「強い愛の確信が持てなくなった」と言葉を絞り出しました。この「貴乃花との破談理由」を巡り、世間の銃口は一斉に母・光子氏へと向けられることになります。

破談の背景には、角界という封建的な世界において「おかみさん」として部屋を支えることを求める相撲協会・藤島部屋側と、世界へ羽ばたく女優としての才能を信じる光子氏との決定的な思想的衝突がありました。当時、親交の深かった歌手の美川憲一氏がりえさんに対し、「あんたも母一人子一人。(相撲部屋の)おかみさんになったら、お母さんどうするの?」と涙ながらに説得したエピソードは報道関係者の間でも広く知られています。破局会見の当夜、光子氏は相談相手であった元水泳選手の木原光知子氏らと共に、自宅で深夜までりえさんに寄り添い、励まし続けていました。

橋本 菜々子
著者

橋本 菜々子

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。