文豪・池波正太郎が生み出した『鬼平犯科帳』は、文芸史に燦然と輝く金字塔だ。実在の長官・宣以の記録をベースにしつつも、作家ならではの巧みな心理描写と江戸の風情を交えたストーリーテリングが、作品に類稀な生命力を吹き込んだ。だが、史実とフィクションの間には興味深い乖離も存在する。
例えば、作中で描かれる洗練された捕物劇や粋な割烹料理屋での密談は、小説としての演出が多分に含まれる。実際の実務はより血生臭く、政治的な泥臭さに満ちていた。それでも池波が描いた「悪を憎んで人を憎まず」の精神は、実際の宣以が遺した行政文書や逸話の随所に滲み出る人間性と深く共鳴している。小説がもたらした文学的ロマンは、実在した男の魅力を減じるどころか、より多層的な奥行きを与えたと言える。