現代の口語短歌が隆盛を極める一方で、その骨格を成しているのは千年以上受け継がれてきた伝統的な美意識です。藤原定家が選定した『小倉百人一首』には、現代人のメンタリティと全く変わらない切実な人間味があふれています。
代表的な作品を振り返ると、平安・鎌倉の貴族たちもまた、スマートフォンこそ持たないものの、現代人と全く同じ恋の煩悶や無常観を抱えていたことが伝わってきます。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」(崇徳院)
川の流れが岩にぶつかって二つに分かれても、下流で再び合流するように、今は離れ離れのあなたといつか必ず結ばれたいという強烈な祈りを詠んだ名作です。激しい激流の比喩に託された情熱は、千年の時を超えて読む者の胸を打ちます。
「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」(平兼盛)
心の中に秘めて隠してきたつもりなのに、顔色や表情に出てしまっていたのだろう、「誰かに恋い焦がれて物思いに耽っているのですか」と他人に尋ねられるほどに、という切ない恋情の吐露です。現代で言えば「好きな人ができたことが周囲にバレてしまった瞬間」の気まずさと胸の高鳴りそのものです。
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」(紫式部)
久しぶりに再会できたというのに、それがあなたかどうかも見定められないほどの短い時間の間に、雲の間に隠れてしまった夜半の月のように足早に帰ってしまったのですね、と幼馴染との慌ただしい別れを惜しむ歌です。
これらの古典短歌と現代の口語短歌は、言葉遣いこそ文語と口語の差異があるものの、「身の回りの情景を通じて、言葉にしがたい心の奥底を三十一音に仮託する」という根本の文法において地続きです。