永六輔は1933年4月10日、東京・浅草にある浄土真宗本願寺派最尊寺の住職の四男として生を受けました。寺町で育まれた仏教的な無常観や庶民への親しみは、のちの創作活動における揺るぎない土台となります。戦時中は長野県へ疎開し、旧制諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)時代にラジオ投稿を始めたことが、放送の世界へ足を踏み入れる原体験となりました。
早稲田大学第二文学部に入学後、昭和の鬼才・三木鶏郎が主宰する「トリローグループ」の門を叩き、弱冠20歳前後で放送作家としての頭角を現します。当時のテレビ・ラジオの現場証言によると、永六輔の台本づくりのスピードと時事問題への切れ味は群を抜いており、NHK『夢であいましょう』などの草創期を代表する国民的バラエティ番組の構成を次々と手がけました。
しかし、本人は自らを「タレント」や「文化人」と呼ばれることを極端に嫌い、生涯にわたって肩書を「放送作家」「作詞家」「旅人」に置き続けました。スタジオの閉じた空間に安住せず、日本全国の津々浦々へ自らの足で出向き、名もなき職人や農家、市井の老人たちの言葉に耳を傾け続けた姿勢こそが、永六輔という表現者の真骨頂でした。