昔の山手線はなぜ黄色や茶色だったのか?激混みと「の」の字運転の真実

昔の山手線はなぜ黄色や茶色だったのか?激混みと「の」の字運転の真実

昔の山手線はなぜ黄色や茶色だったのか?激混みと「の」の字運転の真実について知っておくべき 事実を分かりやすく解説いたします。

現代の感覚では想像しにくいのが、昭和30〜40年代の山手線が記録した「混雑率300%超」という異常事態です。当時の国土交通省(旧運輸省)の指標によると、混雑率200%で「体が触れ合い相当の圧迫感がある」、250%で「電車が揺れるたびに体が斜めになって身動きができず手も動かせない」と定義されていますが、300%はその限界を突破した極限状態でした。

窓ガラスが割れ、乗客の足が浮く車内

当時の国鉄職員の手記や報道特集のインタビュー記録には、すさまじい現場の生々しい証言が残されています。

「新橋や新宿のラッシュ時には、ドア口に乗客が重なり合って乗り込み、押し込まれた圧力で電車の窓ガラスにヒビが入ったり、枠ごと外れたりすることが日常茶飯事だった」「一度足が浮き上がると次の駅でドアが開くまで床に足がつかない」「背広のボタンが引きちぎれ、靴や傘を紛失する乗客が毎朝遺失物係に殺到した」といった体験談が公然と語られていました。

「押し屋」学生アルバイトの奮闘

この超混雑を運行ダイヤに乗せるために投入されたのが、駅ホームの「旅客整理係」、通称押し屋です。屈強な大学生がアルバイトとして多数採用され、発車ベルが鳴ると、ドアからはみ出している何十人もの乗客の背中に全体重をかけて押し込み、無理やりドアを閉める光景が東京の風物詩となっていました。押し屋の技術指導マニュアルが存在したほどであり、彼らの腕前ひとつで発車遅延が左右されたのです。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。