店内の壁面には、かつて提供されていた多種多様なラーメンや定食の短冊メニューが色褪せて残っています。しかし、現在のかに太郎のメニューは実質的に「かにめし」一択です。席に着くと注文を聞かれることもなく、静かに調理が始まる光景は、長年の常連にとっては見慣れた儀式のような趣があります。
このかにめし最大の特徴は、提供価格にあります。長年にわたり500円という信じられないワンコイン価格で提供され続けてきました。近年の物価高騰やカニの仕入れ値の急騰を考慮すれば、常識的には到底成り立たない価格設定です。折箱にぎっしりと敷き詰められたご飯の上には、手作業で丁寧にほぐされたカニの身、錦糸卵、甘辛く味付けされた椎茸やタケノコが美しく敷き詰められ、滋味深いカニ出汁の味噌汁と香の物が添えられます。
この一杯を完成させるため、店主は朝の未明から何時間もかけて小さなカニの殻から身を一本ずつ取り出す気の遠くなるような下処理をこなしています。取材陣や客が「なぜ値上げしないのか」と尋ねても、店主は「遠くから来てくれるお客さんに喜んでほしいから」「自分の体が動くうちはこのままでいい」と穏やかに微笑むのみです。そこには利潤の追求ではなく、厨房に立ち続けること自体を自らの生業とし、人との触れ合いを支えにする孤高の哲学が存在します。