沖田畷の戦いは、九州の勢力図を根底から塗り替えました。龍造寺氏の弱体化により、九州三国志の均衡は完全に崩壊。当主・島津義久を頂点とする島津氏は、大友氏に続いて龍造寺氏をも屈服させ、瞬く間に九州全土のほぼ9割を制圧する「島津義久の九州平定」へ王手をかけることになります。
しかし、この急激な島津の勢力拡大こそが、中央で覇権を確立しつつあった関白・豊臣秀吉の本格介入を招く結果となりました。秀吉による「惣無事令」の発令、そして天正15年(1587年)の大軍による「九州征伐」へと歴史の歯車は一気に加速していくことになります。