相田みつをの独特な平仮名の書体や素朴な言葉遣いは、決して最初から大衆受けを狙ったものではありませんでした。その背景には、血のにじむような古典書の習得と、戦争の悲劇によって刻まれた深い精神的葛藤が存在します。
1924年(大正13年)、栃木県足利市に6人兄弟の三男として生まれたみつをは、旧制栃木県立足利中学校時代から短歌と書に没頭しました。しかし太平洋戦争が激化する中、最愛の長兄と次兄を相次いで戦場で失います。自らも召集令状を待つ極限状態を生き延びた体験は、「いのちの尊厳」と「人間の脆さ」を生涯の創作テーマとして刻み込む決定打となりました。
戦後、歌人・山下陸奥に師事しつつ、書道家・岩沢渓石のもとで古典書道の研鑽を積み、毎日書道展で7年連続入選を果たすなど、伝統的な書壇で高い評価を確立します。しかし、難解な漢字や技巧を競い合うエリート主義的な書道界のあり方に深い疑問を抱くようになります。「専門家しか読めない書に何の意味があるのか。誰の心にも届く、生きた言葉を書きたい」――そう決意したみつをは、安定した評価の道を自ら捨て去り、無名の孤立無援の道へと踏み出しました。
その思想の根底を支えたのが、曹洞宗高福寺の武井哲応(たけいてつおう)禅師との出会いでした。みつをは禅寺に参禅し、仏教哲学の根幹である「無分別」「放下(ほうげ)」の教えを徹底的に叩き込まれます。自分の弱さや傲慢さを徹底的に見つめ直す禅の修練が、後に「だって人間だもの」という簡潔極まりないフレーズへと結晶化したのです。