世界屈指の陸軍大国と自負していたフランスが、開戦からわずか1か月半で壊滅的な敗北を喫した背景には、軍備と作戦指揮における致命的な格差が存在していました。フランス軍の主力を担うシャスポー銃は、プロイセン軍のドライゼ銃を上回る射程と命中精度を誇っていましたが、プロイセン側には大動員を可能にする緻密な鉄道輸送網と、圧倒的な破壊力を持つクルップ社製鋼鉄製後装式カノン砲という近代兵器の切り札がありました。
フランス軍の司令部は動員計画が杜撰を極め、兵士が集結地に到着しても武器や弾薬、食糧が届かないという致命的な混乱が前線で頻発しました。ナポレオン3世自身、当時深刻な膀胱結石を患っており、激痛のために馬にまたがることすら困難なほど健康状態が悪化していました。当時の側近の手記や従軍記録によると、皇帝は蒼白な顔に化粧を施して痛みを隠し、戦術的な決断を下せないまま退却と反撃の間を迷走していたと記されています。
1870年9月1日、フランス北東部の要塞都市近郊で繰り広げられたスダンの戦いにおいて、モルトケ率いるプロイセン軍は電撃的な包囲作戦を完了させました。周囲の丘陵地帯に配置されたプロイセン軍のカノン砲が、盆地に閉じ込められた約10万のフランス軍に容赦ない猛砲撃を浴びせます。脱出の術を失ったフランス軍の陣地は火の海と化し、無意味な殺戮が続きました。
翌9月2日、これ以上の流血を避けるため、ナポレオン3世は白旗を掲げて降伏文書に署名。自ら捕虜となる道を選びました。皇帝自身が敵の捕虜になるという前代未聞の衝撃的な凶報がパリに届くと、民衆の怒りは爆発し、9月4日には無血革命によって第二帝政が崩壊。国防政府(第三共和政)が樹立されることとなりました。