『時をかける少女』の象徴的アイコンである「ラベンダーの香り」。なぜ筒井康隆はこの植物を選び、作中でどのような科学的役割を与えたのでしょうか。
物語の設定上、ケン・ソゴルが生きる西暦2660年の世界では、科学技術の進歩によってテレポーテーション(空間移動)とタイムトラベル(時間移動)を可能にする薬品が開発されています。しかし、その薬品を合成・精製する過程において、現代の地球上に存在する特定の植物性芳香成分が必須の触媒・副産物として発生します。それが「ラベンダーに酷似した甘い芳香」だったのです。
筒井康隆が1960年代半ばにこの設定を考案した際、当時の日本ではラベンダーという植物は北海道の富良野など一部地域で栽培が始まったばかりで、一般家庭にはほとんど普及していませんでした。著者はあえて当時の読者にとって「名前は聞いたことがあるが、実物を嗅いだことがないハイカラで異国情緒ある香り」を配置することで、日常の中に紛れ込む違和感とSF的ガジェットのリアリティを同時に成立させました。
また、ケン・ソゴルの正体に関しても、原作では極めて理知的な背景が明かされます。彼は侵略者や悪意ある時間犯罪者ではなく、未来の薬学博士課程に在籍する優秀な学生研究者です。自ら開発した時間跳躍薬品の臨床実験を行うため、過去の世界として20世紀後半の日本を選択し、フィールドワークを行っていたに過ぎません。和子との別れ際に彼が見せた葛藤は、科学者としての倫理規定(タイムパトロールや歴史改変の抑止則)と、人間的な情愛との間で引き裂かれた知識人の苦悩そのものでした。