にしんそば作りにおいて、成否の8割を握っているのが「下処理」です。家庭調理で失敗する最大の原因は、独特の油臭さと生臭さにあります。にしんは青魚の中でも特に脂質が多く、乾燥加工された「身欠きにしん」は、製造から流通、保存の過程で空気中の酸素に触れ、不飽和脂肪酸が酸化して過酸化脂質へと変化します。これが加熱時に揮発性アルデヒドやトリメチルアミンと結びつき、強烈な戻り臭を放つのです。
この化学変化をリセットするために不可欠な工程が、古くから京都の町家で受け継がれてきた米のとぎ汁による戻しです。水だけで戻した場合、酸化した魚油が身の繊維深くに残留してしまいます。しかし、米のとぎ汁に含まれる微細なデンプン粒子(コロイド粒子)は、表面張力によって酸化した油分や臭気物質を吸着・抱え込み、水中に洗い流す物理的洗浄作用を発揮します。
さらにプロの現場では、戻した後の「茹でこぼし」に番茶(または緑茶やほうじ茶)を用います。茶葉に含まれるカテキンやタンニンは、臭気成分であるトリメチルアミンと結合して不揮発化(マスキング)させ、同時ににしんの皮を適度に引き締める効果を持ちます。この「とぎ汁での吸着」と「茶葉によるマスキング」の二段階アプローチを踏むことで、魚特有の嫌な臭みは驚くほど綺麗に消滅します。