ネット上のQ&Aサイトや一部の雑学本などで、今なお根強く語られている言説があります。「明治政府は、戊辰戦争で幕府側(朝敵)についた藩の城下町名を消し去るために郡名を県名にし、官軍側だった藩はそのまま城下町名を県名にした」という、いわゆる「朝敵藩への懲罰説」です。
この言説に照らし合わせると、「愛知や石川は幕府寄りだったから県名から名古屋や金沢を剥奪された」というストーリーが組み立てられがちですが、近年の歴史公文書研究や明治維新史の実証研究によって、この説は完全に否定されています。
歴史資料が証明するファクト:懲罰説の破綻
歴史的事実を検証すると、懲罰説には決定的な矛盾が存在します。
- 愛知のケース:尾張徳川家は幕末の鳥羽・伏見の戦い以降、明確に新政府側を支持し、東征軍の一翼を担った官軍側でした。仮に懲罰説が正しいとすれば、新政府に多大な貢献をした尾張藩が罰せられる理由はまったくありません。
- 全国の状況:幕末に最後まで官軍として戦った薩摩藩(鹿児島県)、長州藩(山口県)、土佐藩(高知県)はいずれも県名と都市名が一致していますが、同じく官軍の筆頭であった佐賀藩は「佐賀県佐賀市」である一方、津藩(三重県)は県名と県庁所在地が「三重県津市」と不一致になっています。
国立公文書館所蔵の太政官記録などを紐解くと、当時の大蔵省大輔・井上馨らが目指したのは「旧藩の支配体制の完全な解体」でした。城下町名をそのまま県名にすると、領民が以前の藩主体制の記憶を引きずり、中央集権化の妨げになると判断された地域において、広域の歴史的地名である「郡名」が意図的に採用されたのです。つまり、特定藩への私怨や懲罰ではなく、極めて官僚的・合理的な近代国家建設の施策であったことが明らかになっています。