天正6年(1578年)10月、信長の天下統一事業に激震が走りました。摂津国を任され、信長軍の主力として功績を重ねていた有岡城主・荒木村重が突如として織田家に反旗を翻したのです。これが、のちに多くの犠牲者を生むことになる「有岡城の戦い(伊丹城の戦い)」の幕開けでした。
この戦乱の渦中に巻き込まれたのが、荒木村重の妻・だしです。公卿・川端道賢の娘とも伝わるだしは、当時20代前半。織田側の公式記録である太田牛一の『信長公記』には、「きりょうまことにもって世にためしなきほどなり」「今様楊貴妃」と記されるほど、その容姿端麗さは敵味方を問わず広く知れ渡っていました。
信長は村重の謀反に対し、かつてない執念で有岡城を完全包囲しました。城内には村重の家臣団のみならず、その妻子や人質、雑兵に至るまで数千人が籠城。黒田官兵衛が単身で説得に訪れるも幽閉されるなど、事態は膠着状態に陥りました。しかし、1年近くに及ぶ兵糧攻めにより城内の食糧は尽き、凄惨な飢餓地獄へと追い込まれていったのです。