斎藤龍興が後世において不当に低評価を受けてきた最大の要因は、江戸初期に成立した『美濃国諸旧記』などの軍記物による過剰な脚色にあります。これらの軍記物では、側近の斎藤飛騨守を重用して政務を怠り、酒宴に明け暮れたと記されています。しかし、当時の一次史料である文書群を紐解くと、まったく異なる実像が浮かび上がってきます。
永禄4年(1561年)、父である斎藤義龍が35歳の若さで急死した際、龍興はまだ14歳の少年に過ぎませんでした。周辺勢力からすれば絶好の好機であり、尾張を統一したばかりの織田信長は即座に美濃へ侵攻を開始しました(森部の戦い・十四条の戦い)。
しかし龍興は、家臣団の動揺を抑えながら防衛体制を再編。信長軍の渡河作戦や夜襲をことごとく封じ込め、足掛け6年以上にわたって美濃の要害・稲葉山城を死守しました。もし龍興が単なる暗愚な領主であったなら、戦術の天才と呼ばれた織田信長を相手にこれほどの長期戦を持ちこたえることは不可能です。斎藤龍興と織田信長の関係は、単なる「勝者と敗者」ではなく、尾張と美濃の地政学的覇権を懸けた死闘そのものでした。