木村多江さんの演技人生における最大の転換点であり、日本映画史にその名を刻む金字塔となったのが、2008年公開の映画『ぐるりのこと。』(橋口亮輔監督)です。リリー・フランキーさんと夫婦役を演じた本作で、木村さんは幼い我が子を突然亡くし、深い悲しみから重度のうつ病を発症して精神のバランスを崩していく妻・翔子を演じ切りました。
心身が崩壊していく過程の痛々しさ、夫の不器用な愛に触れて再生へと向かうわずかな兆し。スクリーン越しに観客の胸を締め付けたその演技は各方面から絶賛を浴び、第32回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞をはじめ、第51回ブルーリボン賞主演女優賞、第33回報知映画賞主演女優賞など、その年の映画賞を総なめにしました。名実ともに日本を代表するトップ女優としての地位を決定づけた瞬間でした。
しかし、栄光の舞台裏には命懸けの試練が隠されていました。映画の撮影を終えて間もない2007年夏、NHKの主演ドラマ『上海タイフーン』の撮影に入った直後に待望の妊娠が判明。ところが切迫早産の危機に直面し、ドラマを無念の降板となります。その後、木村さんは胎児の命を守るため、ベッドの上から一歩も降りられない「8ヶ月間の絶対安静」という壮絶な入院生活を余儀なくされました。
食事も排泄もすべてベッドの上で行い、天井の模様を数えるしかなかった極限の8ヶ月間。自らの無力さに苛まれながら命の尊さと向き合ったこの過酷な体験が、彼女の人間としての深みをさらに決定づけました。他者の痛みに寄り添い、生きることへの渇望を表現できる木村多江のすごさは、実人生における幾重もの試練を乗り越えてきた証左でもあるのです。