これほど重厚な世界観を構築した平家物語作者成立の経緯には、長年にわたる学術的探求の積み重ねがあります。鎌倉時代の随筆『徒然草』(第226段)には、元信濃守であった「信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)」が平家物語を書き、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語らせたという伝承が記されています。
しかし近年の国文学の研究においては、単独の作者が机上で一気に書き上げたというよりも、複数の知識人や貴族、僧侶たちの手による原初本が生まれ、それを全国を行脚する「琵琶法師(びわほうし)」たちが口承文芸として語り継ぐ中で洗練されていったという「集団的生成論」が支持を集めています。当道座(とうどうざ)の琵琶法師によって語られた「語り本系」(名手・覚一が編纂した『覚一本』が代表)と、記録性を重視した「読み本系」(『延慶本』や『源平盛衰記』など)の2大系統が存在し、現在私たちが教科書で親しんでいるのは覚一本のテキストです。
物語の主軸をなすのは、言わずと知れた平清盛平家一門の興亡です。保元・平治の乱を制し、武士として初めて太政大臣にまで登りつめた平清盛。日宋貿易による莫大な富の独占、娘の徳子(建礼門院)を入内させて安徳天皇の外祖父となるなど、その権勢は「平家にあらざれば人にあらず」と豪語されるほどの頂点を極めました。
しかし、その絶頂期は驚くほど短命でした。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵を契機に各地で源氏が蜂起。清盛が熱病(あつち病)で悶死すると、指導力を失った平家一門は一ノ谷、屋島で敗走を重ね、わずか数年後の文治元年(1185年)、壇ノ浦の波間に幼い安徳天皇とともに沈み、滅亡を遂げました。この急激すぎるジェットコースターのような没落のリアリティこそが、冒頭の無常観に血肉を与えたのです。