1978年、福岡出身の一人の彫刻家が、ノミと玄能(げんのう)だけをトランクに詰めてバルセロナの土を踏みました。当時25歳の外尾悦郎氏です。京都市立芸術大学で彫刻を学んだものの、日本の近代彫刻界のあり方に疑問を抱き、「とにかく石を彫りたい」という一念で海を渡った無名の青年でした。当時のサグラダ・ファミリアは、観光客もまばらで財政難に苦しみ、工事がいつ頓挫してもおかしくない荒涼とした現場でした。
言葉も不自由な東洋人が、現場の門戸を叩いて「石を彫らせてほしい」と直談判した際、当時の建築主任は半信半疑で試掘用の石を与えたと伝えられています。しかし、外尾氏が叩き出す石の質感、寸分の狂いもないノミさばき、そして何より朝から晩まで休まず石塊と対峙し続ける異常なまでの情熱に、職人頭たちは息を呑みました。テストピースを仕上げるたびに現場の評価は急上昇し、やがて彼は正式な石工として雇い入れられることになります。
しかし、単に技術が優れていただけで主任彫刻家に上り詰めたわけではありません。外尾氏が現場で圧倒的な信頼を獲得した最大の転換点は、ガウディに対する「眼差し」の質にありました。自著『ガウディの伝言』のなかで、外尾氏は当時の葛藤を次のように振り返っています。
「最初はガウディの真似をしようと必死だった。しかし、ガウディをいくら追いかけても、彼が作った形の影を追うことしかできない。ある日気づいたのです。ガウディを見るのではない。ガウディが見ていたものを見なければならないのだ、と」
1926年にガウディが路面電車に撥ねられて世を去った際、詳細な設計図や模型の多くは後のスペイン内戦で焼失していました。残されたわずかな破片からガウディの意図を汲み取る作業において、多くの西洋人彫刻家が自らのエゴや現代的な解釈を混入させて失敗するなか、外尾氏だけは「無私」の境地でガウディの視線を追体験しようとしました。この精神的な真摯さこそが、保守的な教会関係者やカタルーニャの建築家たちを唸らせ、異例の日本人主任彫刻家抜擢へと繋がった決定打でした。